1. HOME
  2. ブログ
  3. 情報通信
  4. 6/23は沖縄慰霊の日

BLOG

ブログ

情報通信

6/23は沖縄慰霊の日

今日6/23は沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」です。沖縄戦はたくさんの住民が巻き込まれた悲惨な地上戦で、かけがえのない命や文化遺産が多く奪われました。

沖縄戦から今年で76年。激戦地だった沖縄県糸満市 摩文仁の平和記念公園では、沖縄全戦没者追悼式が開かれ、平和への祈りに包まれました。新型コロナウイルスの影響で参列者は30人に絞られ、規模は大きく縮小されました。平和記念公園内にある「平和の礎」には、今年新たに41人の名前が追加され、総数は24万1,632人となりました。

76年前にあった悲惨な出来事を忘れないよう、慰霊の日には改めて思い出し平和について考える日にしましょう。

慰霊の日

沖縄戦を戦った日本軍・第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が1945年6月23日に糸満市摩文仁で自決し、日本軍の組織的戦争が終わったとされる日、沖縄県では県民の休日とする「慰霊の日」と定めています。毎年、摩文仁の平和記念公園で沖縄全戦没者追悼式が行われ、犠牲者のご冥福と恒久平和を願います。(平和記念公園)

沖縄戦

1945年3月末から6月末にかけて、日本軍とアメリカ軍が沖縄本島を中心にした激しい戦争のことです。この戦いで多くの兵士が戦死し、さらには一般の住民も戦闘に巻き込まれ、尊い命が奪われました。一般住民の犠牲者数は、戦死した兵士の数を大きく上回っています。

“日本の本土防衛”を目的に日本軍の基地や陣地が沖縄本島や離島に建設され、日本軍の戦争準備には多くの県民が駆り出されました。そこへ米軍が上陸し、戦場となってしまったのです。

1944年8月22日、疎開する子どもたち約1,700人を乗せた対馬丸が、アメリカ軍の潜水艦「ボーフィン号」による魚雷攻撃により沈没し、約1,500人が犠牲になった対馬丸沈没。

1944年10月10日、那覇市を中心としたアメリカ軍の空襲(10・10空襲)は、早朝から夕方にかけて5回激しい空襲が繰り返され、被害の大きかった那覇市は約90%が焼失し、約660人が亡くなりました。攻撃の目標は軍事施設だけではなく病院など民間地域にも対象になり、事実上の無差別攻撃だったのです。

「捨て石」となった沖縄

日本軍はもともと沖縄上陸しようとするアメリカ軍と水際で戦い、打ち負かす作戦でしたが、1944年11月沖縄に配備された部隊の中で最も強力と言われた「第9師団」が台湾に移動することが決まったのです。それにより日本軍の力は大幅に弱まりました。

そこで日本軍は作戦を変更し、上陸してきたアメリカ軍をできるだけ沖縄に足止めさせ、日本本土での戦争を遅らせ、その間に本土での戦争準備を整えるという作戦をとりました。=沖縄は本土を守るための「捨て石」となりました・・・。この作戦によって、日本で唯一の地上戦が行われ、多くの一般住民を巻き込み犠牲者を増やすという結果を生みました。

日本軍は中学校(今の高校生)や師範学校(教師を育てるための学校)、高等女学校の生徒など2,000人以上を、「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」として戦場へ駆り立てました。10代の若者たちが日本軍の陣地づくりや弾薬運び、負傷した兵士の看護をさせられていたのです。

琉球新報「沖縄戦ってどんな戦争だったの?」より

3月26日朝から、アメリカ軍が沖縄本島の西にある慶良間の島々に次々と上陸し、上陸した島にいた住民は混乱状態に陥った末、手りゅう弾を使って自ら命を絶つなど、「集団自決(強制集団死)」が起こりました。これは沖縄戦最大の悲劇だと言われています。

日本軍は米軍に捕まることを禁じており、「米軍に捕まれば無残な目に遭う」という恐怖心が住民の心に植え付けられていた結果、自ら命を絶つことしか方法がなかったのです。

沖縄戦に参加したアメリカ兵は約54万人。そのうち18万3000人が上陸したと言われています。それに対し日本兵は11万人。そのうちの2万数千人は沖縄で集めた学徒隊などの集められた兵士でした。力の差は明らかでした。

5月中旬から下旬までの戦いで、日本軍は司令部がある首里まで追いつめられ、本島南端の糸満市摩文仁司令部を移し、部隊も南部一帯に撤退させて、アメリカ軍との戦闘をぎりぎりまで続けることにしました。アメリカ軍最高責任者のバックナー中将が戦死したことで、アメリカ軍は凶暴となり、抵抗する力もない女性やお年寄り、子どもたちを無差別に殺しました。6月になり住民の犠牲者は増大し、この月だけで約4万7,000人もの人が亡くなりました。

沖縄本島南部での戦闘は6月下旬まで続いた後、第32軍司令部の牛島満司令官、長勇参謀長の2名が自決し、日本軍の組織的な抵抗は終わります。しかし、南部一帯での小さな戦闘はその後もやまず、日本兵の戦死者は増え続けたといいます。

沖縄戦では約20万人以上の人が亡くなりました。
そのうち日本兵の戦死者は6万6,000人、アメリカ兵の戦死者は1万2,500人です。
沖縄県民の犠牲者は一般住民が約9万4,000人、
沖縄出身の軍人・軍属が約2万8000人で、合計約12万2000人です。
朝鮮半島から連れてこられた人々も、少なくとも300人以上が亡くなりました。
軍人よりも一般住民の犠牲者が上回ったことが、沖縄戦の大きな特徴です。

犠牲者を忘れないこと

76年前に実際に起こっていたこと、多くのかけがえのない命が失われたことを忘れてはいけないと思います。あの戦争があって今の平和な日本があります。この平和が長く続くように、犠牲になった人たちのことを忘れずに、これからも平和な日本を守っていきましょう。

琉球新報の沖縄戦ってどんな戦争だったの?は特に分かりやすく学べます。ぜひご覧ください。

まんがで伝える沖縄戦もぜひ見てみてください。「震える少女」の物語(前編)「震える少女」の物語(後編)

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

カテゴリー