1. HOME
  2. ブログ
  3. 趣味
  4. 大阪七福神巡り 今宮戎神社・四天王寺編

BLOG

ブログ

趣味

大阪七福神巡り 今宮戎神社・四天王寺編

今回で大阪七福神巡りのご紹介も最後となります!ラストは今宮戎神社と四天王寺です。

今宮戎神社

今宮戎神社は大阪市浪速区恵美須西にある神社で、南海高野線「今宮戎」駅下車、西へ行くとすぐあります。大阪七福神の商売繁盛の神様である「恵比寿(えびす)大神」を祀っています。「えべっさん」として親しまれ、毎年1月9日から11日にかけて十日戎(とおかえびす)が開催されています。

今宮戎神社の歴史

今宮戎神社は推古天皇の頃、聖徳太子が四天王寺を建立したとき、同じ地の西方の鎮護として祀ったのが始めだとされています。御祭神は天照皇大神・事代主命・外三神の三神です。

慶長年間の1596年~1615年、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として、社殿の造営を行いました。また、同時に18石の社領を寄進しました。江戸時代中期には、十日戎の祭事が始まったとされ、元禄年間1688年~1704年には現在と同じ形の祭礼が行われるようになりました。

大勢の人で賑わう今宮戎(江戸時代末期『浪花百景』より)

昭和20年の大阪大空襲により社殿などが焼失しましたが、昭和31年に再建され、現在では十日戎の3日間の祭礼で約100万人の参詣者が訪れるなど、毎年賑わっています。

十日戎

毎年1月9日から11日まで行われる商売繁盛祈願の祭礼です。9日が宵戎、10日が本戎、11日が残り福で、「商売繁盛、笹もってこい」という掛け声が飛び交うとても賑やかなお祭りです。江戸時代から変わらず行われており、現存する最古の大阪案内の図「葺分舟(1675年)」にも十日戎の状景が描かれています。

十日戎の笹

十日戎の笹は、「福笹(ふくざさ)」と呼ばれ商売繁盛の縁起物とされています。日本人は昔から、笹の元である竹には神が宿ると考え、神事などで用いられていました。十日戎の福笹に吉兆、小宝の縁起物である米俵や小判などを付けて、持ち帰って家に飾ると、ご利益が得られると考えられています。また、福笹の他にも熊手やザル(福箕ふくみの)なども縁起物として売られています。

今宮戎神社のホームページに十日戎の笹について記載されていますので、ご紹介いたします。

十日戎の笹
笹は、孟宗竹の枝で、いわゆる群がって生えている笹ではありません。竹 は古代から、文学、美術、芸能、民具など日本人の生活とは密接な関係を保ってきました。中でも竹のもつ清浄さ、根強さ、節により苦難に耐え忍ぶ姿、冬も 青々とした葉を付け、更に竹林の生命の無限性、旺盛な繁殖力など、そこに強い生命力と神秘性を感じとり、神霊が宿るとさえ信じていました。こうした日本人 の竹に対する感性が、色々な神事に笹が用いられることになり、竹取物語のかぐや姫が、竹から生まれるのも同様の信仰から基づいたものです。十日戎の笹も例 外ではありません。常に青々とした葉をつけているところに、「いのち」を生み出し続け、「いのち」を常に甦らせている神秘性、その姿は、神道の信仰そのも ので、神々のご神徳によって、日々「いのち」が甦り、生成発展している姿を象徴しています。

引用:今宮戎神社ホームページより

十日戎の象徴と言われる「吉兆」についてもご紹介いたします。

十日戎を象徴するのが、神社から授与される小宝です。小宝は別に「吉兆」(きっちょう   若しくは きっきょう)と呼ばれ、銭叺(ぜにかます)・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛等の縁起物を束ねたもので、「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴したものです。別の言葉として「山苞」「海苞」「家苞」とも呼ばれています。苞というのは、外からは内部が見えない簡単な容器のことで、もともと山や海や家からの「贈り物」を入れるうつわのことでした。「山苞」は山の神の聖なる贈り物、「海苞」は海の神の聖なる贈り物、「家苞」は里の神の聖なる贈り物となるわけです。これを「市」でそれぞれ交換します。それぞれを「替える」わけです。これが「買う」という言葉になります。この「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴した吉兆は、その中にこもる「御神徳」をいただく信仰を受け伝えたものです。

この吉兆を笹につけて参拝者は家路につきます。

引用:今宮戎神社ホームページより
今宮戎神社ホームページ十日戎の象徴-吉兆-より

十日戎の吉兆は江戸時代の歌謡にも歌われています。

「十日戎のうりものは、はぜ袋に取鉢、銭かます、小判に金箱、立烏帽子、米箱、小槌、たばね熨斗、笹をかたげて千鳥足」

今宮戎神社ホームページ十日戎の象徴-吉兆-より

戎橋

大阪市中央区の道頓堀川に架かる心斎橋筋・戎橋筋の橋は、今宮戎神社への参詣の道筋に架けられたことから「戎橋」と名付けられました。江戸時代の十日戎の時には、市中の人々が皆この戎橋を渡って戎さんへお参りしたので、橋の上は相当な賑わいであったといいます。

献鯛行列

献鯛行列とは、ざこば魚市場が大鯛(雌雄一対)を今宮戎神社へ奉献し、大漁と商売繁盛を祈願する行事です。鯛は今宮戎神社に祀られている「恵比寿さん」ゆかり深いもので、明治から昭和前期にかけては最も盛大で美しい献鯛行列が行われていました。

今宮戎神社ホームページより献鯛行列

宝恵駕行列(ほえかごぎょうれつ)

宝恵駕行列は、元禄期から変わらず行われている祭礼です。紅白の布で飾られた駕籠に芸者が乗り込み、その周りで民衆が「ホエカゴホエカゴ、エライヤッチャエライヤッチャ」と掛け声をして参詣します。地元商店街の協力により、現在では歌舞伎俳優や芸能人などが参加し、毎年華やかに盛り上がっています。

歌舞伎公式総合サイト歌舞伎美人ホームページより

恵比寿とは

恵比寿は古くは漁業の神、現在では商売繁盛のご利益がある神様です。狩衣の姿で、右手に釣竿、左脇に鯛を抱えています。恵比寿は夷、戎、蛭子、胡、恵比須などとも表記されます。

恵比寿は七福神の中で唯一の日本の神様で、イザナミとイザナギの子「蛭子(ひるこ)」だとされています。左脇に抱える鯛は、人々へあげるご褒美という意味があるそうです。

四天王寺

四天王寺は大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山です。大阪環状線「天王寺」駅から北へ徒歩12分、谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅からだと南へ徒歩5分です。大阪七福神の「布袋(ほてい)」を祀っています。

四天王寺の歴史

四天王寺は今から1400年以上前に聖徳太子によって創建されました。推古天皇元年(593年)に建立と伝わっています。『日本書紀』によれば、物部守屋と蘇我馬子との合戦の際に、蘇我氏側についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利した時には、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓い、建立したとされています。伽藍の配置は「四天王寺式伽藍配置」と言われ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並んでいて、そこに回廊が囲んである形式で、日本最古の建築様式の一つです。

四天王寺式、法隆寺式、川原寺式の伽藍配置の図

明治の神仏分離令によって、四天王寺に所属していた神社が切り離され、厳しい状況となりましたが、人々から変わらず篤い信仰を受け、庶民信仰のお寺・聖徳太子様のお寺として、従来通り信仰されていました。昭和9年の室戸台風の時は、五重塔が倒壊、金堂他も壊滅するなど大きな被害を受け、昭和20年の大阪大空襲では境内のほとんどが焼失しました。

四天王寺ホームページより室戸台風による被害
四天王寺ホームページより昭和20年の伽藍炎上

多くの人々の協力を得て復興されています。現在では、創建当時の様式を忠実に再現し、ほぼ旧観を取り戻しています。

総面積は約11万㎡で、甲子園球場の三倍の広さを有しています。境内には、四天王寺式伽藍の他、聖徳太子の御霊を崇る太子殿、創建当時の品など国宝や重要文化財を所蔵している宝物館があります。聖徳太子を偲んで、毎年4月22日に聖霊会舞楽大法要が行われ、重要無形民俗文化財の「天王寺舞楽」が披露されます。NHKの新日本風土記アーカイブスから四天王寺の舞楽が見れますので、ぜひご覧ください。

布袋とは

布袋は福の神様で、笑門来福、夫婦円満のご利益があります。唐の時代末から917年頃まで明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在していた仏僧だとされ、大きな袋を背負い、太鼓腹の姿で描かれています。

実在したモデルの僧は、契此(かいし)という名前で、大きな袋に施された食べ物や貰い物を入れて放浪生活を送っていて、契此の占いは百発百中だったそうです。

大阪七福神巡りやなにわ七福巡りは、頑張れば1日で巡拝できるコースです。新型コロナウイルスの影響で気分が下がっている方、景気づけに「福の神巡り」はいかがでしょうか?ぜひ皆さまも行ってみてください!

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

カテゴリー