1. HOME
  2. ブログ
  3. 趣味
  4. 鳥羽・伏見の戦いの痕跡①

BLOG

ブログ

趣味

鳥羽・伏見の戦いの痕跡①

幕末の京都で起こった鳥羽・伏見の戦いの痕跡が、現在でも残っています。歴史好き、特に幕末史好きの方はご存知の方が多いと思いますが、今回は鳥羽、伏見などに今も残っている戦いの痕、戊辰戦争の歴史舞台についてご紹介いたします!

鳥羽・伏見の戦いとは

鳥羽・伏見の戦いは幕末1868年(慶応4年)1月3日~6日、京都南郊で行われた新政府軍と旧幕府軍の戦いで、戊辰戦争の幕開けとなりました。戦いがあった場所は現在の京都市南区、京都市伏見区です。

引用:Wikipedia鳥羽・伏見の戦いより

戊辰戦争の背景

1854年(嘉永6年)の開国以来、外国勢力を打ち払う攘夷運動をしていた長州藩や薩摩藩でしたが、諸外国との戦争を経て、日本と外国の国力の差を思い知らされることになりました。それ以来、外国から近代的な武器や技術を積極的に取り入れ、「倒幕運動」を進めていきました。

幕府は倒幕勢力の拠点だった長州に対し、「長州征討」として2回に渡って武力攻撃していますが、これにより反幕府勢力の勢いを増すことになりました。1867年(慶応3年)薩長はいよいよ武力倒幕の方針を固め、公家の岩倉具視の画策による「討幕の密勅」を手に入れます。

しかし、ここで第15代将軍徳川慶喜は武力倒幕を避けるため、同じ年の1867年10月に「大政奉還」、政権を天皇に返上したのです。慶喜は徳川幕府がなくなった後の新政府でも、徳川勢力を維持して政治を行おうとしました。

大政奉還によって幕府がなくなったため、武力倒幕という大義名分が消えた薩長は、次の手に出ます。1867年(慶応3年)12月、旧幕府関係者以外を御所へ集め、「王政復古の大号令」を出し、これにより新政府(明治政府)が成立することになりました。王政復古の大号令の内容は、①江戸幕府の廃止②摂政・関白の廃止③新たに総裁・議定・参与の三職を創設するというものと、徳川家の所領の一部を朝廷に返上する、慶喜の内大臣の官職の辞職など、幕府側がとうてい受け入れがたい条件を差し出しました。

王政復古の大号令の約1ヶ月後、静観していた旧幕府側が挙兵し、京都の鳥羽・伏見で新政府軍との戦い、戊辰戦争が開戦されました。

引用:Wikipedia鳥羽・伏見の戦いより

上の画像の左側が旧幕府軍、右側が新政府軍です。新政府軍の兵力は4,000人~5,000人で、旧幕府軍が約15,000人でした。人数では旧幕府軍が圧倒的でしたが、最新式の武器を取り入れていた新政府軍は旧幕府軍を圧倒し勝利しました。

錦の御旗(にしきのみはた)

鳥羽・伏見の戦いの戦況を大きく変えたのが、朝廷(天皇)の軍の旗である「錦の御旗」でした。

戦いの最中である1月4日、新政府軍が用意していた錦の御旗が掲げられました。錦の御旗は天皇から官軍として認められた証です。これにより新政府軍が官軍、それに敵対する旧幕府軍は賊軍となってしまったのです。

錦の御旗が掲げられたことで、天皇の象徴に向けて攻撃をしないといけなくなった旧幕府軍の士気は一気に下がることになりました。朝敵となることを恐れた旧幕府軍の兵たちの多くは退却していき、新政府軍に軍配が上がったのです。

鳥羽・伏見の戦いの痕跡

①鳥羽伏見戦跡(とばふしみせんせき)

京都市伏見区中島秋ノ山町の小枝橋の東詰に鳥羽伏見戦跡という石碑が立っています。ここは鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られた場所で、約1年半に渡る戊辰戦争の発端となった場所なのです。

1868年(慶応4年)1月3日の夕刻、旧幕府軍である桑名藩、見廻組を中心とした隊は、鳥羽街道を北上して京都市街を目指していましたが、鴨川に架かる小枝橋で薩摩軍に行く手を阻まれました。押し問答を繰り返すも埒が明かず、日が暮れかけた時、旧幕府軍は強行突破を試みます。それを阻止しようとした薩摩軍が一斉に発砲し、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。

旧幕府軍は15,000人、新政府軍は約5,000人の兵力で、数には勝る旧幕府軍でしたが、最新式の武器を装備した新政府軍には歯が立たず、この日は退却することになりました。

そして翌日4日には、薩摩が東寺に錦の御旗を掲げ、旧幕府軍は一気に賊軍の汚名を着せられることになったのでした。

②伏見口の戦い激戦地跡

京都市伏見区南浜町の京橋北詰の東側に伏見口の戦い激戦地跡の石碑が立っています。伏見にあった水運の中心地・京橋で、激烈な戦いが繰り広げられました。

京橋は京都と大坂を結ぶ水運の中心地で伏見港と呼ばれ、千数百隻の船でにぎわっていました。鳥羽・伏見の戦い前日には、会津藩の先鋒部隊約200人が大坂から伏見京橋に上陸します。そして旧幕府軍の新選組などは伏見奉行所に陣を置きました。しかし、武力の差により退却することになり、火を放ちながら淀方面に敗走、周辺の民家などが多く焼かれて大きな被害が出ました。

③魚三楼の鳥羽伏見戦の弾痕

京都市伏見区京町にある老舗料亭「魚三楼(うおさぶろう)」には、鳥羽・伏見の戦いの際の弾痕が残っています。魚三楼は1764年(明和元年)創業、薩摩藩の炊事方も務めていました。

魚三楼の表の格子に銃撃の弾痕が筋のように入っています。右から左の方向に銃弾が発射されたように見えると思います。伏見の町、南半分が戦火によって焼け野原になったのですが、魚三楼の建物は弾痕のみの被害だったそうです。

鳥羽・伏見の戦いの舞台となった場所はまだまだありますので、次回ご紹介いたします!

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

カテゴリー