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京都 新選組ゆかりの地

新選組は幕末の京都で治安維持にあたっていたため、京都に新選組ゆかりの地がたくさんあります。新選組の屯所として使われた八木邸(壬生屯所旧跡)、前川邸、新選組隊士のお墓などがある壬生寺は特に有名ですが、今回は少しマニアックな地をご紹介いたします。新選組好きの方はご存知だと思いますが、あまり知らない方は必見です!

①光縁寺(こうえんじ)

光縁寺は京都市下京区四条大宮町にあります。八木邸や前川邸からもほど近いので、新選組好きの方は訪れたことのある方が多いと思います。光縁寺には新選組総長・山南敬助や新選組の勘定方・河合耆三郎(かわいきさぶろう)などのお墓があり、新選組関連の人々の供養をしているお寺として知られています。

新選組総長だった山南敬助は、仙台藩出身で江戸の小野派一刀流は免許皆伝、また千葉周作の門人として北辰一刀流の使い手で、柔術の名手だったとも言われています。人柄は心優しく温厚で壬生のあたりや隊士などから「親切者のサンサンさん」と呼ばれ親しまれていたそうです。読み方は一般的に「やまなみ」として知られていますが、本人の署名で「三南」「三男」としていたため、「さんなん」だった可能性が高いと考えられています。

近藤勇の天然理心流 試衛館道場で他流試合を挑んだことがきっかけで、山南は近藤勇や土方歳三などの試衛館の門人たちと行動を共にするようになりました。のちに京へ上り新選組を結成し、総長という役職に就いた山南でしたが、1865年(元治2年)2月、「江戸へ行く」という手紙を残し脱走という隊規違反を犯し、2月23日に切腹となりました(享年33歳)。脱走の理由は分かっていませんが、ドラマや小説などでは徐々に土方や近藤と意見が対立するようになり、脱走したように描かれることが多いです。江戸試衛館時代からの同志だった山南が切腹となった事実は、新選組の歴史の中でも大きな悲劇だったと思います。

また、光縁寺には沖田総司の恋人だったとされる女性のお墓もあります。お墓には「沖田氏縁者」と彫られ、過去帳に記載があるだけで真実は謎のままですが、沖田総司が京都にいたころの恋人ではないかと言われています。

②金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)

京都市左京区黒谷町にある金戒光明寺は、新選組発祥の地として有名なお寺です。徳川幕府は京都の治安維持のため、新たに京都守護職を設置し、天誅として暗殺が相次いでいた京都の治安維持に当たらせていました。京都守護職に就任したのは会津藩主・松平容保で、本陣は黒谷の金戒光明寺にありました。

金戒光明寺は京都御所にほど近く、何かあればすぐ駆けつけられる距離で、造りは城構えで南には小さな門しかないため、一気に大軍が入ってこられないようになっています。寺域は約4万坪ある大きなお寺なので、1,000名の軍隊が駐屯できていたといいます。

1863年(文久3年)、京都に上洛される将軍警護のために集められた浪士組でしたが、実は尊皇攘夷を目的とした勢力として集められていました。この清河八郎の意見に反対したのが、のちの新選組となる近藤勇や芹沢鴨など13名でした。徳川幕府守護の為京都に残ることを決めた近藤らは、松平容保から京都守護職お預りの肩書きをもらい、新選組の前身である「壬生浪士組」が誕生しました。そして八月十八の政変の際の活躍が認められ、「新選組」の名をもらい、正式に京都の市中警護を命じられました。新選組は京都守護職の下で不逞浪士の取り締まりを行い、池田屋事件などの手柄をあげたのでした。

本堂である御影堂前の階段は、大河ドラマ『新選組!』のオープニングで隊士たちが駆け上がった階段だということです。実際に当時の近藤や土方も、ここを上がって容保様の元を訪問していたのではないでしょうか。

境内には文久2年~慶応3年の間に亡くなられた会津藩士が眠る墓地があり、まだ新しく見える容保様の像の姿もありました。敷地に入るとひときわ強い風が吹き、何か違う空気が流れていると感じたところです。

③島原 角屋(すみや)

京都の島原・花街で営業していた角屋は京都市下京区西新屋敷揚屋町にあります。島原は新選組隊士がよく通っていたという花街で、壬生の南の方にあり、壬生屯所からはアクセスしやすかったようです。島原は幕府公認の花街でした。島原には輪違屋(わちがいや)という置屋兼お茶屋さんもあり、こちらも新選組と関わりのあった遊女がいたことで有名ですが、今回は角屋をご紹介します。

角屋は1641年(寛永18年)創業の揚屋(あげや)さんです。揚屋とは芸妓さんなどを抱えずに遊興の場所を提供するお店のことで、現在でいう料亭のような存在でした。現在は「角屋もてなしの文化美術館」として中の見学ができ、大座敷、広い庭、お茶室、大規模な台所、美術品や歴史的資料などを見ることができます。

角屋は新選組ゆかりのお店で、特に芹沢鴨との因縁が深いことで知られています。酒に酔った芹沢鴨が角屋で乱暴をはたらき、7日間の営業停止を申し渡したこともあったといいます。また、芹沢が付けたとされる刀傷も残っています。芹沢が土方歳三などに暗殺される事件があった当日、宴会がこの角屋で行われていたことも分かっています。

角屋の2階にも新選組が付けたとされる刀傷がありました。当時のままの部屋もあり、新選組が通っていた頃にタイムスリップしたような感覚になりました。

④不動堂村屯所跡

京都市下京区松明町にはかつてあった新選組最後の屯所の跡があります。1867年(慶応3年)6月に西本願寺の屯所からこの場所に屯所を移転しました。ちょうど移転した頃は、局長近藤勇らが幕府の直参となった直後だったとされています。新選組のために新しく作られた不動堂村の屯所は、西本願寺側が建築費や諸経費を全て負担して作られたそうです。

不動堂村があったとされる場所には、近藤勇の歌碑と新選組の袖章とみられるものが彫られていました。この石碑はリーガロイヤルホテル京都の入り口にあります。

⑤新選組洛中最後の屋敷跡

京都市下京区西洞院通塩小路に新選組洛中最後の屋敷跡という石碑がひっそりと立っています。1867年(慶応3年)に新選組の屯所を不動堂村へ移した頃、この地域に新選組が屋敷を営んでいました。言うなれば最盛期の邸宅でした。新選組隊士で近藤勇の甥だった宮川信吉の書簡や、新選組幹部だった永倉新八の手記に「七条通り下ル」と記されていることから、この付近であったことは確実だと言われています。

慶応3年6月15日は入居していることが分かっているのですが、同年12月には王政復古の大号令、翌年1月には鳥羽・伏見の戦いとなり、わずか半年で屋敷を離れることになったのです。その後屋敷は維持されずに早々に消失し、静かな農村に戻ったそうです。

⑥藤森神社

京都市伏見区深草にある藤森神社は約1,800年前、神功皇后によって創建されたと伝わる皇室と縁深い神社です。5月5日の菖蒲の節句の発祥地として知られ、菖蒲→勝負と連想できることから、武運の神社として信仰されています。また、新選組局長・近藤勇ゆかりの神社とも言われています。

他の神社の鳥居には寺社名などが書かれた扁額(へんがく)が掛けてありますが、藤森神社の南入口にある鳥居には扁額がありません。

鳥居には1711年(正徳元年)の銘があり、以前は後水尾天皇の宸筆の額が掛かっていたことが分かっています。参勤交代で前を通過する際、駕籠から下りて拝礼をし、槍などは倒して通らないといけないという決まりがありました。時代は進み幕末になると、いちいち拝礼するようなことは時代にそぐわないとして、近藤勇が扁額を外してしまったと伝わっています。現在でも扁額は外されたままになっています。

また境内に祀られている大木の切株は、参拝すると腰痛が治ると伝えられ、近藤勇も参拝していたとのことです。

いつ頃参拝していたのかは不明ですが、鳥羽・伏見の戦いが始まる前の1867年(慶応3年)の暮れ頃ではないかと推測されています。

⑦近藤勇遭難の地

京都市伏見区深草柴田屋敷町に近藤勇遭難の地という石碑が立っています。ここで近藤勇が襲撃される事件が起こりました。

鳥羽・伏見の戦いの少し前の1867年(慶応3年)12月18日、京都町奉行所の永井玄蕃守との軍議のため二条城に赴いていた近藤勇が、その帰りに伏見街道の墨染通り付近で肩に銃弾を受けました。狙ったのは新選組から分離した御陵衛士の一派でした。新選組と御陵衛士の内部抗争、油小路事件の生き残りが近藤暗殺を企てたもので、右肩に弾が命中し、近藤は治療のため京都を離れ大坂に退くことになりました。いつ戦いが始まるかわからないという時に、京都を離れなければならなかった近藤はさぞ無念だっただろうと思います。近藤が復帰するまで副長の土方歳三が戦いの指揮を執ることになりました。

今回は有名な場所からあまり知られていない地まで、新選組ゆかりの地をご紹介いたしました!

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