京都 幕末維新の史跡
幕末の動乱期、京都市の鴨川に架かる三条大橋や四条大橋の一帯では暗殺や斬り合いなどが多く発生し、殺伐とした空気が漂っていました。また、長州藩邸や土佐藩邸なども密集しており、幕末に関わる多くの史跡がそこら中に存在します。今回はほんの一部ですが京都に残る幕末維新の史跡と共に、どのような事件が起こっていたのかご紹介いたします!
幕末の三条大橋
江戸時代、三条大橋は東海道五十三次の西の拠点だったため、常に大勢の人が通っていました。人通りの多い三条大橋西詰には、高札場(こうさつば)という幕府が決めた法度や掟書を高く掲げる場所がありました。現在は三条駅のすぐ近くに高札場跡が残っています。
三条大橋の隣の川岸は「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われていた場所でした。新選組局長・近藤勇もここで晒し首となりました。
まずは三条大橋で起こった幕末の事件をご紹介します。
①三条制札事件(さんじょうせいさつじけん)
三条制札事件とは、1866年(慶応2年)9月、土佐藩士8人が三条大橋西詰に立てていた幕府の制札を引き抜こうとしたところを、新選組が襲撃・捕縛した事件です。
制札とは、幕府が出す法令や意向などを民衆に広く伝えるための広報紙のようなもので、東海道と中山道の出入口として常に大勢の人が通っていた三条大橋に置かれていました。制札には「蛤御門の変で御所へ向けて発砲した長州は朝敵だ」という長州藩の罪状が書かれていたといいます。その制札を引き抜いて破壊するというのは、幕府への冒涜的行為でした。同年8月にも制札の文字が墨で塗りつぶされ、破壊されているのが見つかっていたため、京都守護職の松平容保は事態を重く見て、新選組に出動命令を出しました。
9月10日に容保公の命を受けた新選組隊士は、大勢で三方向から包囲して犯人を捕らえるという作戦をとりました。36人の隊士は三条大橋の周辺に身を潜めて待機し、3日後の12日深夜に現場を押さえることに成功します。新選組は相手の土佐藩士1人を切り殺し、もう1人を捕えましたが残りの6人を取り逃しました。36人で張り込んでいたのにも関わらず取り逃がした理由は、待機中に酒を飲んで酔っていたからと言われています。松平容保は面目を保ったとして、新選組に報奨金を出したといいます。
三条制札事件の際、新選組のメンバーが12人ずつに分かれて待機したという酒屋や三条会所跡は、場所は不確定ですが現在の京都市中京区の辺りのようです。
②池田屋事件での斬り合い
池田屋事件とは、1864年(元治元年)6月5日、京都三条木屋町の旅館池田屋に潜伏していた、長州藩と土佐藩などの尊王攘夷志士を新選組が襲撃した事件です。長州藩・土佐藩・肥後藩の尊攘派の志士たちは、京都御所に火を放ち、混乱に乗じて一橋慶喜(後の徳川慶喜)と京都守護職・松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州へ誘拐するというクーデターを計画していました。尊攘派志士たちを支援していた枡屋・古高俊太郎を新選組が捕縛し、自白させたことでこの計画が明らかになりました。古高の店からは多くの武器弾薬が見つかったといいます。
会合が行われるという情報を得た新選組は、2つの部隊に分かれて探索し、6月5日近藤隊が池田屋で会合中の尊攘派志士約40名を発見します。近藤隊はわずか9名でしたが、沖田総司・永倉新八・藤堂平助など精鋭が揃って踏み込み、後に土方隊も加わって2時間にもおよぶ戦闘が繰り広げられたと伝えられています。尊攘派は宮部鼎蔵・吉田稔磨など8名が命を落としました。
その池田屋事件の斬り合いでついたとされる刀傷が、三条大橋西側2つ目の擬宝珠(ぎぼし)についています。ぜひ三条大橋を渡る際には目をやってみてください。
現在池田屋は「池田屋 はなの舞」という海鮮居酒屋となって営業されています。お店の入り口には池田屋騒動之跡と池田屋事件の解説看板が立っています。
維新の史跡
①近江屋事件跡
近江屋事件とは、1867年(慶応3年)11月15日坂本龍馬が近江屋で暗殺された事件です。一緒にいた中岡慎太郎も事件の数日後に亡くなり、龍馬の従僕だった山田藤吉も殺されました。
近江屋は由緒ある醤油屋さんで、店の2階(井口新助邸)が龍馬たちの滞在先となっていました。事件が起こる前から龍馬暗殺の噂が流れ、新選組や京都見廻組に狙われているとして、酢屋から近江屋へ移った10日後に襲撃されます。実行犯は諸説あり、今でもはっきりとしていませんが、京都見廻組佐々木只三郎らが有力だとされています。刺客が「こなくそ」と言ったという証言から、明治までは新選組の原田左之助、大石鍬次郎の仕業だとされていました。現在では薩摩藩陰謀説や紀州藩説など多くの謎に包まれています。
近江屋事件跡は「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地」として、京都市中京区の河原町通りに石碑と看板が立っています。
②長州藩邸跡
長州藩邸跡は京都市中京区一之船入町、京都ホテルオークラが建つ一角にあります。長州藩邸は南に門があり、東に裏口が開いていて、4030坪を有していました。八月十八日の政変によって京都から追放された長州藩は、1864年(元治元年)名誉回復のため朝廷へ嘆願書を出しましたが、御所を警備していた会津藩や薩摩藩と武力衝突します(禁門の変)。禁門の変で敗れた長州藩は、この藩邸を焼き払って京都から脱出し、これによって京都市内は「どんどん焼け」という大火災が発生することになりました。
また、池田屋事件の際には池田屋から脱出してきた土佐藩士・望月亀弥太が、長州藩邸まで逃げてきたが中に入れてもらえず自刃したという事件もありました。
長州藩邸跡は御池通り側に立ち、河原町通り側には桂小五郎(木戸孝允)の銅像があります。桂小五郎は西郷隆盛と薩長同盟を結び、倒幕挙兵を進めた維新に欠かせない人物です。
③南禅寺
南禅寺は京都市左京区にあります。山門や水路閣が有名で人気の観光スポットですが、ここは幕末とある事件が起こった場所でした。
八月十八日の政変で京都を追われたはずの長州藩士250人が京都に潜伏している情報が、新選組や京都見廻組に入っていました。尊攘派志士の肥後藩・宮部鼎蔵が京都に入ったという報せを受けてから、新選組は宮部鼎蔵の行方を探し回っていました。
そして1864年(元治元年)6月1日の朝、南禅寺の庭園・天授庵に入ろうとする宮部鼎蔵の下僕・忠蔵を新選組隊士が捕まえます。取り調べに対し知らぬ存ぜぬで押し通した忠蔵は、南禅寺山門の楼上で縛り付けられ、数日生き晒しにされました。忠蔵が生き晒しになっていることで、宮部鼎蔵や他の尊攘派志士に動きがあることを狙った策でした。すぐに宮部や吉田稔磨などの耳に入りましたが、動くことは危険だとして小川亭という旅籠屋に身をかわしました。その後、小川亭の女将・小川テイが忠蔵を助けに行ったという話が残っています。
この他にも挙げたらキリがないぐらい幕末維新の史跡は存在します。また少しずつご紹介いたします。ぜひ京都へ行った際には、ここで150年ほど前にあった出来事に思いを馳せてみてはいかがでしょうか!
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