鳥羽・伏見の戦いの痕跡②
京都市に残る鳥羽・伏見の戦いの痕跡、まだまだご紹介いたします!ぜひパート①からご覧ください。
④会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
京都市伏見区大坂町には会津藩駐屯地跡(伏見御堂)の石碑が立っています。
伏見御堂は桃山時代1596-1615年の慶長年間に建てられたお寺で、鳥羽・伏見の戦いの前日、伏見京橋から上陸した会津藩の先鋒隊約200人が陣を置いた場所でした。鳥羽方面から砲声が聞こえると、新政府軍が本営を置いた御香宮神社から伏見奉行所をめがけて大砲が連発され、伏見の町でも戦いが始まります。
伏見御堂の本堂の畳を盾にして鉄砲の撃ち合いがあったと言われ、建物は大きな被害を受けました。明治18年に縮小して建て替えられたものの、平成2年には老朽化のため取り壊され、現在は石碑と山門・鐘楼・大銀杏(おおいちょう)が残されているだけとなっています。
⑤伏見奉行所跡
京都市伏見区西奉行町にある桃陵団地内に伏見奉行所跡の石碑と説明看板があります。伏見奉行所は徳川幕府によって1624年(寛永元年)に設置され、伏見および八ケ村の政務が行われていました。鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍の拠点となります。
伏見奉行所に入っていたのは会津藩と新選組の部隊でした。新政府軍による砲火が浴びせられ、奉行所は焼け崩れてしまい、旧幕府軍は敗走することになります。
桃陵団地の古写真を見ると、周りが石垣で囲まれた立派な佇まいだったことがわかります。現在は当時の石垣を再現して建てられています。
⑥御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)
京都市伏見区御香宮門前町にある御香宮神社は、鳥羽・伏見の戦いの際、新政府軍である薩摩軍の本営が置かれていた場所です。
1867年(慶応3年)12月に王政復古の大号令が出されると、京洛の内外では緊張が走り、新政府側と幕府側の間で一触即発の険悪な空気が流れていました。12月17日御香宮の表大門に「徳川陣営」と書かれた大きな札が掲げられましたが、御香宮の祠官が御所へ注進し、翌日薩摩藩士によって札は外され、21日から薩摩軍が駐屯したそうです。
当初薩摩軍は伏見薩摩藩邸内に待機していましたが、旧幕府軍の舞台が伏見奉行所に集結していくのを見て、本営を伏見奉行所からほど近い御香宮神社に移しました。そして鳥羽方面から砲声が聞こえると、御香宮神社の高台に位置する場所から旧幕府軍が立てこもった伏見奉行所めがけて大砲が連発されたのです。
境内入口には伏見の戦跡碑と説明版があります。本堂などがとても綺麗な状態だったので建て替えがあったのか尋ねると、ほぼ当時のままの状態だと教えていただきました。新政府軍の本営だったことが大きな要因だと考えられます。
旧幕府軍が敗走していった淀方面にも多くの痕跡がある他、鳥羽・伏見の戦いの際、幕府軍の病院となった神社も存在しています。次回詳しくご紹介いたします!
この記事へのコメントはありません。