鳥羽・伏見の戦いの痕跡③
京都に今も残る鳥羽・伏見の戦いの痕跡をご紹介いたします。ぜひパート①②と合わせてご覧ください!
⑦淀城跡
京都市伏見区淀本町にかつて存在した淀城ですが、現在は本丸の石垣と堀の一部だけが残され、淀城址公園として整備されています。淀城は1623年(元和9年)徳川秀忠の命令によって建てられたお城で、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に大きな影響を与える城でもありました。
旧幕府軍は新政府軍に大軍勢で攻められないように、淀堤という堤防のあった狭い道の千両松で新政府軍を迎え撃ちました。剣豪揃いだった新選組は地形を生かして新政府軍と互角に戦っていましたが、新政府軍による一斉射撃により次々と倒れていきました。千両松での戦いは千両松の激闘と呼ばれ、慰霊碑も立っています。⑧でご紹介いたします。
淀城には幕府の要職である老中・稲葉正邦が城主でした。旧幕府軍は淀城を味方と信じて逃げ込もうとしますが、淀城は固く門を閉ざして旧幕府軍を拒絶します。この時城主の正邦は不在で、重臣・田辺右京の弟の田辺治之助が留守を預かっていました。鳥羽・伏見の戦い前に、正邦の許可なく新政府軍の味方につく誘いを受け入れていたといいます。
淀城入城が叶わなかった旧幕府軍は大坂城へ敗走することになります。
⑧淀千両松の戦いの碑
千両松の戦いとは、淀千両松で起こった旧幕府軍と新政府軍による戦いです。土方歳三率いる新選組や会津藩による戦略により、淀堤の道しかない狭い千両松で新政府軍を迎え撃ちにしました。しかし、新政府軍が持つ近代武器の一斉射撃を受け旧幕府軍は惨敗します。
千両松では新選組6番隊組長だった井上源三郎が討死するなど、新選組20数名が戦死しました。
千両松には激戦があったことを伝える址と、戊辰役東軍戦死者之碑が立っています。
⑨淀小橋旧跡
千両松の戦いで敗北することになった旧幕府軍は淀城を目指し敗走することになりました。宇治川に架かる淀小橋は、淀城の入り口として重要な橋だったため、旧幕府軍はこの橋を焼き払って、新政府軍の侵入を阻止します。
しかし旧幕府軍が逃げ込んだ淀城には入城を拒まれ、新政府軍は舟で宇治川を難なく渡り、旧幕府軍の敗北が決定付けられていくことになります。
⑩長円寺(ちょうえんじ)
淀新町にある長円寺は、鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍の野戦病院となり、負傷者や戦死者が数多く運び込まれていました。淀城に拒まれた旧幕府軍の負傷者は、南の長円寺に向かって手当てを受け、運び込まれた戦死者は供養されました。門前の道には流血しながら歩く負傷者の姿が見られていたといいます。
戊辰戦争の際に、土方歳三が榎本武揚に長円寺が幕府軍を大いに助けたお寺であったことを伝えていました。そのことがあり、1907年(明治40年)榎本武揚が長円寺の山門脇に「戊辰役東軍戦死者慰霊碑」と書いた碑を立てました。
⑪妙教寺(みょうきょうじ)
京都市伏見区納所にある妙教寺は、鳥羽・伏見の戦いの際の砲弾の痕が残っています。旧幕府軍が敗走するのを新政府軍が追っている際に被弾したと言われています。
残念ながら新型コロナウイルス感染拡大の影響で中を拝見することができなかったのですが、門の佇まいから当時の様子を感じることができました。
⑫淀光明寺
明治に行われた廃仏毀釈によって廃寺となっていますが、「幕府軍新選組ゆかり鳥羽・伏見の戦い戦死者供養の寺 光明寺跡」という石碑があります。
鳥羽・伏見の戦いで戦死した旧幕府軍の遺体は、当時野ざらしになっていたそうです。その遺体を地元の村人やお寺の人たちが協力して埋葬したのがこのお寺であったということです。戊辰戦争戦死者慰霊碑とお地蔵様が立っていました。
京都にこんなにも鳥羽・伏見の戦いの痕跡が残っていたことに驚きました!石碑だけが立っていても、当時の状況を頭に浮かべて思いを馳せることは出来ました。旧幕府軍、新政府軍どちらも日本を守るために必死で戦った、そんな歴史があって今があることを忘れてはいけないですね!
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