私が好きな新選組の生き様
倒幕から明治維新
江戸時代末期に薩摩、長州、土佐、肥前の雄藩が中心に行った倒幕運動。
これによって倒れた江戸幕府は、265年の歴史に幕を閉じ、 明治という新しい時代が始まりました。 この流れを明治維新と呼びます。
倒幕から明治維新までの激動の時代を、新選組は徳川幕府の下で、勝てば官軍!負ければ賊軍!という状況で戦い続けます。 徳川政権を助け続けますが、最終的には敗れる形となった新選組。
私がなぜその新選組が好きなのか、お話したいと思います!
今まで巡った新選組ゆかりの地
私は新選組ゆかりの地である東京の日野こそ行ってはいませんが、 京都と大阪にあるゆかりの地は巡りました。少しご紹介いたします。
京都の新選組ゆかりの地
- 京都の霊山歴史館
- 霊山護国神社
- 三条大橋
- 二条城
- 壬生寺
- 八木邸
- 池田屋跡
- 坂本龍馬ゆかりの地である坂本龍馬寓居之跡
日本を守るため若くして散った幕末維新の志士たちが眠る地である霊山護国神社では、鳥肌が止まりませんでした。また、京都の鴨川に掛かっている三条大橋についた刀傷跡も強く印象に残っています。
大阪の新選組ゆかりの地
- しじみ橋
- 八軒屋舟着場
- 谷三十郎の墓
- 京屋忠兵衛跡
- 今橋
- 旧鴻池家本宅跡
- 萬福寺
- 口縄坂
- 幕末関係のゆかりの地である大阪会議開催の地、土佐高知藩蔵屋敷跡
様々な地を巡り、当時に思いを馳せました。
新選組の生き様
新選組と聞くと皆様の中では、人斬り集団で、残虐なイメージをお持ちになっている方がいるかもしれません。 確かに否定はいたしません!
しかし、ただただ人を斬った集団ではなかったということ、 彼らが最後まで徳川幕府を庇護した理由と、その悲しくなるほどの不器用な生き方を語らせて下さい!
徳川幕府が日本を統治していた頃、 江戸(現在の東京)は幕府から手厚い保護を受けていました。
特に、江戸の日野という地域(現在の東京都多摩地域南部)は徳川のお膝元として長い間手厚く保護されていました。 例えば農民の年貢で見てみると、日野の農民が納める年貢と外様大名下の地域の年貢とでは違いがあります。 日野の農民の年貢の方が安く、ゆるやかな統治だったと言えます。
このような幕府の恩恵を受けていた地域で、百姓の子として生まれ育ったのが 近藤勇(新選組局長)、土方歳三(新選組副組長)だったのです。
いつかは武士になりたい!と志をもちながら、剣術の腕を磨いていた彼らですが、 ついに憧れていた徳川幕府の下で新選組として働くことになります。
特に治安の悪かった京都で、討幕派志士たちを取り締まっていました。 その実力は、新選組の名前を聞いただけで震え上がらせたほどだったと言います。
いつしか時代の流れは倒幕へと変わっていき、新選組は倒幕派の長州、薩摩、土佐などと闘うことになります。 そして、最終的には皆若くして散っていくという悲劇の集団なのです。
ここまではご存知の方も多いと思いますが私が語りたいのは、 いかに一途な集団だったかということです! 最後の最後まで徳川を守り続けた新選組の覚悟は、 隊旗に現れていると私は考えています。
新選組の隊旗に込められた意味
赤地に「誠」の文字と白く染められただんだら模様の隊旗は有名です。
この「誠」の意味は諸説ありますが、誠の字の通り【言】を【成】す、すなわち一度言葉にしたことは必ず成すという意味ではないかというのが説一つ目です。 武士に二言はないという、武士にとっての基本を掲げていたということだと思います。武士に憧れ続けた近藤、土方の想いだと想像できます。
もう一つは、新選組結成前に腕を磨いていた道場である試衛館の字だったのではないかという説です。試衛館の試の文字が「誠」の字で、その字を掲げていたというのは、故郷を忘れずそして武士になったという誇りを感じさせます。
また、新選組立ち上げの際にいた局長芹沢鴨の出身の水戸藩の思想から「誠」の字にしたのではないかとも言われています。
私はただただ真っ直ぐに徳川への忠義を貫いた忠誠の「誠」だと考えます!
鳥羽伏見の戦いで新政府軍に錦の御旗が掲げられ、賊軍となってしまった新選組ですが、徳川連合軍は最後まで闘い続けます。
敗走という形にはなりましたが徳川への義を最後まで貫き、北の大地まで行き、そして果てます。
そんな新選組の生き様に、最後の武士の誠を感じました。
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